テンプルトン・アセット・マネジメント会長 マーク・モビアス独占インタビュー


ARGENTINA  April 2009
アルゼンチン by Mark Mobius


エマージングマーケットで40年を過ごし、いまなお優れた投資先を求めて年200日も世界を旅するマーク・モビアス氏。最新の旅行記を寄稿いただきました。

マーク・モビアス in アルゼンチン 豊かな農耕地、そして山と湖、南部の氷河など、アルゼンチンはおそらく世界で最もロマンチックな美しい国であり、ラプラタ川(スペイン語で「銀の川」)岸に建つエレガントな首都、ブエノスアイレスは、素晴らしいレストランも多く、知的文化人が集うタンゴの街として有名だ。

1536年にこの街を設立したスペイン人は、船乗りに崇拝されていたサルデーニャ(イタリア北西部の旧王国)・ヴァージンにちなんで、サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ(良き空気の我らが聖母マリア市)と名付けた。ヨーロッパの雰囲気を今に残すこの街は、実際にそのヨーロッパと覇権を争ったこともあり、南米大陸に残されたヨーロッパ文化の遺産であることを自負している。

実際、この街の文化は、イタリアやスペイン、イギリス、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国からの移民によって織り成されているものだ。そう言えば、「アルゼンチン人は基本的にイタリア人だが、スペイン語を話し、イギリス人になりたいと思っている」と、誰かに聞いたことがある。

ブエノスアイレス空港に到着して驚いたのは、以前の訪問で感じた安っぽさがなくなっていたことだ。明るくてモダンな免税店や高い屋根の下に新しく拡張された到着、出発エリアなど、民営化後の空港は大きく改善されていた。

私たちは、プエルト・マデーロ地区にある新しいヒルトンホテルに宿泊した。 ホテルは、息を呑む吹き抜け建築の巨大な建物だった。 そして、プエルト・マデーロは、歴史的な地区だった。

マーク・モビアス in アルゼンチン むかし、大きな貨物船は、ブエノスアイレスに近づけなかった。川底が浅かったからだ。 岸から遠くに停泊しなければならなかった船からは、貨物や旅人が荷船やフェリーで埠頭と行き来していた。

1882年、新しい埠頭の建設でこの問題の解決を政府に託されたのは、ブエノスアイレスのビジネスマン、エドワルド・マデーロだった。10年の歳月を費やした新埠頭建設では、当時の最新技術を用いて運河が掘られ、鉄鋼クレーンなどの設備が整えられた。こうした建造物は現在、地区の歴史として当時のままに保存されている。実際にはその後、さらに大きな船がプエルト・マデーロに接岸することを可能にするため、1926年に新しい埠頭の建設が完了している。

こうしてマデーロが建設した埠頭は用無しとなり、クレーンや倉庫などは荒れるに任されていた。したがって、現在の様にマデーロの埠頭が復活するには、1990年代の地区再開発と設備の近代化を待つことになった。

最初にレンガ造りの倉庫がオフィスやアパート、ロフト、レストランなどに改装され、次にノーマン・フォスターや(クアラルンプールのツインタワーを設計した)シーザー・ペリ、フィリップ・スタークなどの有名建築家による高層・低層の建築物プロジェクトが進められた。

ここは今や、生活や仕事、そして娯楽の場として、最も流行の地区だ。埠頭の東と西を結ぶプエンテ・デ・ラ・ムヘール(女性の橋)はスペイン人建築家、サンティアゴ・カラトラバによる超近代的な歩道橋で、またここでは、私たちが宿泊したヒルトンに続いて、コンラッドやスターウッドなどによるホテル建設も計画されている。

マーク・モビアス in アルゼンチン ヒルトンから徒歩で10分ほどのところにあるカバナ・ラス・リラスは、レンガ造りの倉庫を改装したステーキ・レストランだ。アルゼンチンは世界有数の牛肉生産を誇る国なので、レストランは先ず食肉店から始めるべきであり、この有名ステーキ店はその点でも適切な選択だった。

キッチンを見渡すガラスの向こうでは、大きな肉の塊が炭火の炎に包まれていた。私は、シザーサラダに続いて、ジューシーなビーフ・デ・ロモ・サーロインをミディアム・レアでいただいた。実際にはこの食事、土地の名産である「チョリソ」ソーセージから始まったのだが、おいしかったとは言え、このソーセージに何が入っているかは知らない方が良いのかもしれない。同席したアルゼンチン人の友人は、牛肉・ハム・チーズが入った土地のペーストリー、「エンパナダス」を注文していた。

後日、パルレモの高級住宅街にあるイタリア料理店、パロラッシア・カサを訪れた。濃厚なトマト・ソースでパスタを、そしてヴァルモンの赤ワインを楽しんだ。このワインは、1968年にフランス人の農学者によってアルゼンチンに紹介されたマルベック葡萄で作られている。アルゼンチンでは既に一般的となっているこの素晴らしい葡萄だが、産地としては特にメンドーザ地方が有名だ。

市街でのミーティングに車で向かっていると、カサ・ロサダ(ピンクの家)と呼ばれる大統領府が見えた。この建物が面している中央広場ではここ数年、アルゼンチン経済の苦境を訴えるデモ行動が盛んに行われている。

マーク・モビアス in アルゼンチン アルゼンチンの株価は2009年3月時点で、ピークだった2008年6月から72%の下落率に達している。

4月時点では安値から16%ほどの反発を見せているが、アルゼンチンの政治的・経済的な状況が決して芳しくないことから、株式市場の見通しは冴えないものとなっている。軟調な国際市場、弱気な見通し、収入の減少などを背景に、アルゼンチン経済は減速の度を強めているのだ。

さらに、農業国であるアルゼンチンは、ここ50年で最悪といわれる干ばつに悩まされてもいる。経済の減速と国際市場での農産物価格の下落、結果としての輸出収益減少は、アルゼンチン政府の歳入に多大な影響を与えている。しかしその一方、選挙を控えていることから、政府の支出は拡大基調ともなっている。

現在、大統領府を預かっているのは、ネストル・キルチネル前大統領の妻、クリスチーナ・フェルナンデス・キルチネル大統領だ。2007年10月に大統領府の住人となった現大統領は、ライバル候補を22ポイントも上回る、44%の得票率で大統領選を征したとされている。この得票率差は、1983年にアルゼンチンが再民主化されて以来、大統領選における最大値となっている。ただ、この選挙については、およそ100万ドルの選挙資金をベネズエラのヒューゴ・チェベスがキルチネル候補に送っていたとして、米国連邦検事がその有効性に疑問を呈している。スペインとドイツの家系をくむ現大統領は、その攻撃的な演説スタイルから、エバ・ペロン(ドミンゴ元大統領婦人=「エビータ」)と比較されることが多い。

マーク・モビアス in アルゼンチン また、現大統領は前大統領である夫から、インフレ問題、労働組合からの賃金引上げ要求、パリ・クラブとの負債違約問題、国際的な信用力の失墜など、数多くの問題を引き継いでいる。例えば、インフレ問題については、その数字が捏造されているとの見方が一般的となっている。前大統領の下で経済大臣を任されていたフェリサ・ミセリが、インフレ指数を担当する国家統計局の役人を更迭し、自身が選んだ人物を統計局以外からその役に据えたからだ。

政府発表では7%の低下とされている今年1月のインフレ率が、民間機関による概算では20%とされていることなどは、こうした背景を裏付ける材料ともなっている。ちなみに、オフィスのトイレに6万ドルの現金を隠していたことが明らかになったミセリ前経済大臣は、辞任を余儀なくされている。

2003年から2007年に大統領を務めたネストル・キルチネルは、第一回投票の22%の集計が終わった段階で、大統領選に勝利している。対抗候補だったカルロス・メネム前大領領が、この時点で選挙戦から撤退したからだ。キルチネル前大統領の支持者たちは、彼の出身地がアルゼンチン南部の寒冷地であったことから、「ペンギン」と呼ばれた。

独裁と軍部や警察などの権力に反対する左派の急進的なペロン主義者、というのがキルチネル前大統領の政治主義的背景とされている。前大統領に対して公平であろうとするなら、彼がアルゼンチンの深刻な経済状況に立ち向かわなければならなかった、という事実も考慮するべきだ。キルチネル前大統領の前任者であるドゥアルテ元大統領が、「1アルゼンチン・ペソ=1米ドル」としていた1991年以来の固定為替相場を放棄していたからだ。この措置を受け、ペソは短期間に3分の2 以上値下がりする結果となっていた。自国通貨の下落はアルゼンチンの中産階級にとって、資産価値減少という剥奪行為に過ぎなかった。今日の為替レートは、「1米ドル=3.71ペソ」となっている。

政治不信に陥ったアルゼンチン国民が、「政治家はいらない」とのスローガンの下に集結しているのは、もっともだと言える。

前大統領はまた、政治的に米国と距離を置く一方、ベネズエラのヒューゴ・チェベスを含め、この地域の国々へ接近する外交政策を進めた。アルゼンチンの大統領として最初にニューヨーク証券取引所の取引開始ベルを鳴らしたキルチネル前大統領だが、ブエノスアイレスの水道事業に関するプロジェクトで、フランスの公益事業会社であるスエズとの契約を打ち切るなど、前大統領と現大統領が本当に自由企業経済を支持しているのかについては、疑問も生じている。

ヒルトンはモダンで洗練されたホテルで、素晴らしいヘルスクラブや屋上プールもあった。ただ、ラプラタ川沿いの遊歩道をサイクリングしたり、ジョギングしたりしたのも楽しかった。週末には、ラプラタの川洲に渡ったり、電車で30分ほどの所にあるティグル(現地で捕獲されたジャガーの名前に由来する)の町を訪れたりした。歴史的な電車はいくつもの古びた駅を通り、この町まで走っていた。終点には、パーク・デ・ラ・コスタという名前の遊園地があり、有名なカジノや川港もあった。

私たちは内装にマホガニーを使った往年の小船を雇い、英国風の船小屋やベル・エポック(古きよき時代)の名残がある邸宅、レストランやピクニック場などを川面から見てまわった。こうした自然の美しさが、ティグルの町に一年を通じて観光客を呼び寄せる結果となっている。

ブエノスアイレス以外の場所も見なくてはと、アルゼンチン南部の海岸リゾート、マル・デル・プラタも訪れた。

この町の中心部には、既視感(デイジャヴ)を思わせる巨大で印象的なカジノがあり、昔に戻った様な雰囲気が醸し出されていた。海に向かった広大なテラスでは、古いレコードからの音楽をバックに、老夫婦たちがタンゴを楽しんでいた。その後ろには、馬上のアルミランテ・ギレルモ・ブラウン提督の銅像があった。1827年のフンカル海戦でブラジル艦隊を打ち破った提督は、アルゼンチンの英雄なのだ。ブエノスアイレスと同様にマル・デル・プラタでも、景気回復への希望とその兆候を雰囲気として感じた。

次回の訪問では、その回復が現実となっていることを期待したい。

(翻訳:パンローリング)

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